Chapter 30
現代人は、エンターテイメントの多様化と映像技術の進歩に伴って過激な刺激に慣れているが、その不感症ぎみの現代人に、息をも吐かせぬ展開で、今年はオリンピックと大統領選挙という重大イベントがあるということさえ忘れさせてくれる政府と政治家に感謝したい。これがSF映画やTVゲームの中の出来事であって欲しいが、もしそうだとすればこんなにエキサイティングな感覚は味わえないだろう。
福田政権は、安倍政権の突然の空中分解によって誕生した暫定内閣だから仕方ないのかもしれないが、日銀総裁さえ決め切れないお粗末な状況になっている。そもそも、首相なみに報酬をもらう日銀総裁とは、一体どのような仕事をし、そして、どのような人がなるべきなのか?その実態は全くの謎だが、誰が考えても財務省の出身者が適格でないことはわかる。財務省に対して牽制する役割を、順番待ちの財務官僚が担える可能性は低い。そもそも、役所の論理と金融市場の論理は全く違う。金融市場は生き物であり、それも現在は相当気難しい精神状態にある。その状況を機敏に察して手なずけることができる人物でなければならない。実際にFRBのバーナンキ議長でさえ、荒馬に振り落とされる寸前だ。正に生き馬の目を抜くような難しい仕事である。民主党の主張は、そういう意味においては正しい。総裁のポストが空席になることは避けなければならないが、ふさわしくない人物が5年間も居座るリスクを思えば、たとえ1カ月の空席でも、傷は浅いと割り切るべきだろう。
以前、村上ファンド事件の責任を取らずに居座る福井総裁の甘さを指摘したが、現在のように日本の株式市場において、上場企業のPBR(株価純資産倍率)が1倍を割る企業が6割を超えるという馬鹿げた状況は、政府、日銀の取ってきた政策が失敗だったことの証明ではないか。日本企業の株式市場での評価が、純資産価値以下ということが何を意味するか分かるだろうか。株主は、株を売るより、企業自体を解散して資産を売り払った方が得ということだ。日本企業の作る工業製品は、海外の競合製品と比較して、明らかに優れている。それにも関わらず、なぜ日本株がこれ程低い評価を受けるのか。これ程迄に日本の価値を貶める金融政策は、何もしない方がましと言われても仕方ないだろう。その失敗政策を継続するような人事案が、民主党はともかく、国民に受け入れられるとは考え難い。そのような認識さえない鈍感振りに驚く。
「鈍感力」という言葉を生んだのは、小説家渡辺淳一だが、それは、敏感な人があえて鈍感の振りをするという意味である。経団連が、中央省庁の半減を提言しているが、このような状況を鑑みれば、その指摘は誠に納得し易い。この状況を大袈裟に言うと、世界の潮流に取り残された太平洋戦争当時の大艦巨砲主義に通じる程の時代錯誤があるように感じる。ぬるま湯にどっぷり浸かったカエルが、百戦練磨のズル賢いきつねやタヌキに対抗できる筈がない。いっそのこと、アラン=グリーンスパン前FRB議長を総裁候補にしたらどうか。高給に魅力を感じて喜んで受けるかもしれない。冗談はさて置き、行・財政システム改革こそが、日本を再生する唯一の方法である。そのためには、まず改革を実行する人を変えなければならない。
さて、赤福餅、船場吉兆、中国の餃子等、虚偽表示、異物混入等で、多くの不祥事が表沙汰になっているが、マスコミの取り上げ方が偏っているように感じる。一部の製品に不正が見つかると、全製品に不正があるかのような扱いである。中国の1社、それもほんの1部の製品に異物が混入していたというだけで、すべての中国製食品の安全性に疑問があるかのような扱いである。
企業は、日本でも中国でも、営利を目的とするので、原価が販売価格を上回っては成り立たない。食品に限らず、工業製品等、あらゆる製品は、原価が管理されている。デフレの時代に、あらゆる製品が安く供給することを要求され、パソコンや携帯電話は、毎年、性能や機能が大幅にアップしても価格は据え置き若しくは値下げが要求される。食品も、穀物の値上がり、燃料費の高騰により、価格を据え置くために大変な努力があると思われる。
中国製餃子は安い割には美味しいということで、多くの人々が買っていたのだろう。異物が混入していたことは確かなので、それは事実として、再発防止に全力を尽くすべきだが、毎日のようにニュースのトップで取り上げる程の事件だろうか。赤福や、船場吉兆もそうだが、特に、船場吉兆などという高級料亭の名前を知らなかった人の方が多いのではないか。これらの会社が起こした製造年月日や産地偽装も消費者を欺く行為であり、非難されるべきことだが、マスコミの報道の仕方が過剰に感じる。頻繁に取り上げ、昼のTV番組では、腰の曲がった高齢の経営者を追っかけ廻し、責任の取り方が甘いと言わんばかりにマイクを向ける。事件後、その製品を買うか買わないか、その店に行くか行かないかは、消費者が判断することであり、マスコミは、製造年月日や産地偽装があった事実を報道するだけで十分だと思う。会社の存続や経営者の責任の取り方は、ステークホルダーが判断することであり、消費者、株主、取引先の意見に従えばいい。船場吉兆のような自分達とは縁のない高級料亭の経営者が辞めようが、辞めまいが、それこそ「そんなの関係ない!」だろう。高級料亭の常連客が、騙されたとは思わないと思うし、むしろ、産地は違ったかもしれないが、美味しかったから、また食べたいと思うのではないか。それを、一度も行ったことがない庶民が、けしからんと非難するのは筋違いのように思う。
このようにマスコミが、消費者の威を借りて当事者を追っかけ廻す様は、まさに「いじめ」だ。それこそ、学校における「いじめ」は、昨年、マスコミがさんざん取り上げたネタではないか。現代のマスコミによる「いじめ」は中世ヨーロッパの宗教戦争で恣意的に利用された魔女狩りに似ている。ただ、私は、「いじめ」を否定するつもりない。現実社会には、明らかに「いじめ」は存在するし、それを乗り越えて生きて行くことが求められる。だから、学校の「いじめ」は、ある程度は必要とさえ感じる。スポーツ界でも、大相撲の横綱朝青龍が標的になっていたが、巡業をサボってサッカーのボランティアに参加していたという程度はご愛嬌だろう。まあ、その悪役朝青龍が、また強くなって、日本人力士を投げ飛ばす様は、憎々しげで楽しい。スポーツ選手もしかり、企業もしかり。本当の強さは、「いじめ」などの逆境を、実力で乗り越えて行く中から生まれる。弊社も、ご多聞に漏れず、さまざまな「いじめ」を受けている。しかし、その「いじめ」を上回る「応援」があることも事実であり、「いじめ」た連中を見返してやることを楽しみに日々努力を積み重ねている。「いじめ」こそが本当の応援なのかもしれない。
すべての物事には功罪、両面がある。食品の問題に限らず、介護のグッドウイルにしても、ITのライブドア、英会話のノバ、その他不祥事でスケープゴートになった企業には、視点を変えれば、評価すべき点が多くあったから競合を凌いで有名になった。これらの企業は、悪事を働いた結果、競合との競争に勝ったわけではない。以前にも記述した通り、グッドウイルは、TVコマーシャルで介護の仕事に明るいイメージを与えた。行政が同じことをやろうとしたら、ヘルパーを確保できなかったか、確保するために待遇を良くせざるを得ず、時給が跳ね上がって更に大きな財政赤字を招いただろう。実際に、介護の現場では2割のヘルパーが辞めて、深夜の介護サービスが提供できなくなっている。
このように功罪の功の部分を評価しないで、罪ばかりを糾弾するマスコミの報道は、いかがなものだろう。少なくとも一部のマスコミは、功の部分をクローズアップし、視聴者が公平に判断できる材料を提供すべきだと思う。
日銀の総裁人事に関しても、マスコミが取り上げるべきは、政府が日銀総裁さえ決めることができないシステムに問題はないか。また、適任者を、どのように決めれば、日本の株式市場を高く評価してもらえるかと行った前向きの視点だ。魔女を見つけて指摘することは悪いことではないが、その魔女を、どうすれば退治できるか、そしてどうすれば魔女が出現しなくなるかを、皆で考えようではないか。国民すべてが評論家になって、あれが駄目だ!これが駄目だ!の大合唱をしても、世の中は良くならない。どのように制度、仕組みを変えれば、日本が住みよい国になるかを一緒に考えよう。
平成20年3月18日
最近のマスコミ報道に感じること