Chapter 9
会社設立から、3年が経過し、ナイトライド・ストーリーもChapter11に近付いてきた。Chapter11で終るというのも、洒落としてはおもしろいと思うが、現実にあってはならないことである。
今回は、私の行動、判断の基準となる根本原理をお話ししようと思う。賢明な皆さんは、大体、私の人物像は描けていると思うが、私自身の分析による主観的人物像をご紹介しよう。これは、主観なので、当然、こうありたいとか、こうあるべきだという理想像が含まれるので、実体とは乖離しているかもしれないが、それも、皆さんにとっては興味深いところだろう。
私は、Chapter1で、私自身の性格は、ジム=クラークが、CEOの条件として掲げた大部分に該当していると書いた。エンジニア、マーケッター、未来学者、実践家、社会学者、夢想家、ギャンブラー、伝導師、ゲリラ戦士、禅僧、狂信者、愛想のよいセールスマン、早変わり芸人など、すべての条件を持った人間が、ハイテク企業の経営者に求められる。この中で、私が該当していないのは、エンジニアということだけだろう。
実は、私がエンジニアではないということが、ある問題を引き起こした。それは、産学連携という形態にも影響するが、どうしても大学で働く従業員の意識の中に、大学の延長線という意識があり、生産性ということが理解されなかった。産学連携のメリットは、スタート時において、ゼロスタートではなく、立派な施設と研究員が既に揃っていることだが、ある部分では、それが逆に足かせとなる。それは、なぜ、起きるかいうと、大学に勤務していると、どうしても会社への帰属意識が低くなる。そこで、大学で働いている従業員の意識を、改めなければならないと気付くのが、私がエンジニアでないが故に大幅に遅れた。私は、自分が一々細かいことまで指図されることを嫌うので、他人もそうだろうと、放っておいたこともよくなかった。ビジネスマンとしての責任を十分認識させる必要があるのだ。わかり易く言うと、最低限自分の給料に見合った仕事は、しなければならないということを、認識させなければならないということだ。そんな低次元な教育をしなければならないというのは情けなかったが、現実はそうだった。
そして、結果的に、それを受け入れられない人達は、自ら辞めていった。以前紹介した海外のエンジニアをはじめ数名が会社を去って行った。私は研究者にとって束縛のない自由な社風を築きたいという気持ちは強いが、それは、あくまでも自己管理が前提になっていて、会社の経営的にプラスになる役割を果たすなら何をしていてもいいが、それ以外は、許されないということだ。これは、私にとっても残念なことだが、仕方のないことである。投資家は、研究資金を提供してくれたのではなく、この資金を元手にビジネスを成功させて欲しいという願いを込めて、投資したのだから。毎月の給料は空から降ってくる訳ではない。そんなに大勢のエンジニアが抜けて大丈夫かとご心配の向きもあると思うが、結果的にスムースに会社が廻るようになった。会社とは、チームプレーなので、どんなに優秀でも、連携を乱す分子がいると、全体としての効率が落ちる。これは、私がこの会社で身を持って経験したことである。本当に優秀な選手とは、周りをうまく活用し、自分も生かされる人のことを言う。ということは、辞めて行った人達は優秀ではなかった訳だが、優秀になれる可能性を秘めていただけに、残念である。
さて、私の性格の話に戻るが、エンジニアでないこと以外は、ほぼ該当しているように思う。その性格は、多重人格であり、米国のネットベンチャーブームの頃、「パラノイアしか生き残れない」と言った人がいたが、ベンチャー企業を起ちあげようという人が、すべてこのような性格である必要はないが、エキセントリックな性格の人が起業家には向いていると思う。つまり、ビジネスとは、基本に忠実でありながら、その組み立て方に独創性が要求される作業だからである。基本を理解していない人は、スタートすることさえ難しいが、大きく成功するには独創性が要求される。
また、ビジネスは、あくまでも不完全な人間がやることだと言うことを心得ておかなければならない。様々な人々が織り成す人間模様の集合として形成されるビジネス模様とでも表現したらよいかもしれない。各個人の人生の中で、仕事にかかわる部分において失敗と成功を繰り返しながら、それらが微妙に絡み合って模様が出来上がるのである。従って、夫婦関係、家庭の事情なども間接的に影響を与える。ということで、その結果が自分の思い描いた通りになることは、まずない。努力の結果として、それに近づけることは可能だが、大部分は、思惑から外れる。そもそも私は、物事が計画通りに進むことをよしとしない。それは、良い方向へ向かう場合も、悪い方向へ向かう場合のどちらの場合もそうだ。計画とは、計算し尽くして、思惑を形にしたものだから、勢いがない。これは芸術創作活動に似ている。絵画、音楽その他どんなものでも、計算して大衆に媚びたものは決して傑作とはならない。今は、古典と称されるベートーベンやモーツァルトなどのクラシック音楽も、当時は最先端の変な音楽だった。今はやりのロックグループで言えば、マリリン=マンソンといったところか。マリリン=マンソンとは、爬虫類みたいな容姿をしていながら、社会的にもっともらしいことを宣う現代のカリスマである。彼は一歩間違えば、ただの変人だが、一歩間違えば悪趣味以外の何物でもない音楽にのせて、体制批判をする現代の宣教師だ。彼は、何故、そんなことをするのか。それは彼なりの表現による社会に対するメッセージなのだ。変人が、変人扱いされない理由は、社会的必要性に拠る。彼の存在が、現代の若者にとって必要不可欠だから、彼の行動と音楽が受け入れられる。
私にとって、ビジネスはこれに近い発想である。従来の社会体制の生んだ様々な歪みを正すため、自分のメッセージを、ビジネスを通じて伝える。経済が停滞する本当の理由は、人々の心の問題である。経済的に豊かに成り過ぎた日本人が、避けて通れない道。誰もが、今の豊かな生活を維持したいと思っているかのような錯覚に陥っている。経済的豊かさの無意味さに気付きながら、それを放棄する勇気を持てずにいる。従来の尺度による豊かさは、何の意味も持たないのだ。現代人は、既に経済的豊かさを求めていない。だから、経済は発展しないのに、それを認めようとしない。それが、何とも宙ぶらりんな状況を現出している。経済的繁栄を捨て、精神的豊かさを享受できる社会の実現こそが、私が追求しているものである。
ある問題にぶつかった時、問題を直視し、逃げないで、困難に立ち向かうことが重要だ。外部経営環境の変化、取引先との関係、会社内部の問題、その他ありとあらゆる問題に正面から向き合って、最善の反応をすることで企業をよい方向へ導いて行く。反応と書いたのは、その行動が、私にとって意識された行動ではなく、ある物質に別の物質を加えた時の化学反応と同じように、無意識の行動なのである。私は、直感型の人間なので、重要な決断を下す場合にも、時間を要しない。その場合の判断の拠り所は、問題から逃げていないかどうかである。全ての物には正しい道と誤った道がある。正しい道を選択すると、すんなり通り抜けられるが、誤った道を行くと通り抜けられない。実際、今までの経験では、無難にまとめようとして、うまく行かなかった事や、周りからそれは無理だろうと言われたのに、うまく事が運んだことがよくあった。これは、正しい道を選択すれば、無理と思われるようなことも実現できるということである。私自身、なぜそのようなことが起こるかわからないが、なんらかの法則が明らかに存在する。
たとえば、最近の経験では、我々が、365nmの紫外線LEDを使って白色照明を可能にするという選択肢は、つい先月奈良で開催された国際学会までは、異端だった。それまでの常識では、外部量子効率の高い470nmの青色LEDとYAG蛍光体、若しくは400nm近辺の紫色LEDにRGB蛍光体の組み合わせというのが主流だった。ところが、今や、それぞれの言い分は、あるにせよ、我々が狙ってきた365nmの紫外線LEDとRGB蛍光体の組み合わせが、白色照明の有力候補として浮上してきた。以前も書いた通り、紫外線LEDの現状における外部量子効率は10%に満たないが、蛍光体の励起効率が短波長側で高まる。従って、紫外線LEDの外部量子効率が青色並の30%近くになれば、数倍明るくなるのである。我々は、この波長に掛けて早い段階から開発をしてきた。それが、此処へ来て俄然現実味を帯びてきた。すでに伸びる余地を失った他の波長と違って、我々は、着実に外部量子効率を高めることによって勝者と成り得る。これぞまさに、私にとっては正道を行くビジネス展開なのだ。
このように、それぞれの重要なタイミングで、最善の反応(判断と行動)をし、それによって予想もしなかった程の良い結果を導き出すことができれば、最高に幸せである。私にとって計画に従うということは、目隠しをして自動車ラリーに出場する等しい。ナビゲーターは、刻一刻と変化する天候、路面状況、競合とのタイム差をとっさに判断してドライバーに伝達する。ドライバーは、その指示に従って、マシンを操るのである。ビジネスとは、一種の相場であり、刻一刻と環境が変化するので、事前にそのマーケットを予測することは難しい。予測できるなら、すべての企業が計画通り黒字になり、世の中に不況なんてものは存在しない筈である。その時々の最大の情報を持って、その時点でとることが可能な最善の行動を取り続けることが成功への道なのだ。不況に陥るのは、先は、こうなる筈だという、もっともらしいが滅茶苦茶な根拠に基づいて、画一的な行動(投資)をとるから起きる。そんなことでは、大きな魚を逃がしてしまうのではないかと反論される方がおられるかもしれないが、大きな魚は、突然巨大な姿を現す訳ではなく、稚魚が、成長スピードに差はあるものの、時間とともに成長したものなのである。だから、その成長を観察していれば、どれぐらいの餌が必要かということは、わかるのである。従ってこのように導き出された結論は、結果として、最も論理的且つ妥当な結論になる。
私が、今一番苦労しているのは、どうしたらビジネス模様を自分の思い描く模様に近づけられるだろうかということである。こんな発想が、傲慢の始まりなのかもしれないが、自分の両親、兄弟、友人など、身の回りの人で、自分の言うことを理解し、行動してくれる人が何人いるだろうか。ビジネスとは、全く血縁関係のない人々の努力の結果として、成り立つ。それは、投資家、従業員、取引先、下請けなど、様々な人々の利害が一致したところで成立するのである。以前、私は成功した人の共通点として、「運命的な出会い」を指摘した。これは、冷静に分析すれば、ただ単に「利害の一致」と言える。その時点の私にとって、偶然、願ってもないタイミングで現れたその人はメシアのようなありがたい存在だが、相手にとっても私がメシアになっているのである。その人は、ボランティアで私の前に現れたわけではなく、自分自身の利益のために現れたのである。この場合の、結束力は、ある意味では血縁関係より強い。多分に、血縁関係は甘えに繋がるから、お互いがわがままを主張して分裂する。これは血縁関係に限らず、夫婦、恋人、友人同士、先輩・後輩の関係でもそうである。ところが、お互いが利害関係で結び付く場合は、相乗効果を発揮して、良い方向へ向かう。そもそも、お互いが相手を利用してやろうという魂胆だから、犠牲的感情が湧かないのである。ビジネスライクという言葉があるが、まさにビジネスライクな関係こそ相応しい。
世の中に完全な人は、存在しない。几帳面な人、ずぼらな人、発想力・思考力に優れた人、行動力のある人、論理的な人、雄弁な人、無口な人、それぞれに特徴があり、その局面によっては、良い場合もあり、悪い場合もある。だから、あらゆる状況において、最高の対応ができるということはない。ある場合は、忍耐力を試されるようなことばかりが続く。私は、そのような場合に、本人の自主性に任せるべきなのか、敢えて問題点を指摘して直させるべきか正しい答を見出せていない。毎朝、ジョギングしながら、あれこれ思い悩んでいる。問題点に気付く自分がいやなこともある。どの道、予測した通りにはならないのだから、指摘する必要はないと思いながら、言いたくてしょうがない自分が存在する。鈍感過ぎて気付かなければ楽かもしれないが、それは、目隠しをしてジェットコースターに乗るようなもので、逆に怖いかもしれない。わたしは、当社の幹部が、人材が足りないという言葉には、一切耳を貸さない。なぜなら、それは、外部には、そんな都合のいい人がいて、その人が会社に来れば、明日からでもすぐに状況が好転するだろうという甘えと勘違いが元になっているからである。今いる社員の能力を100%出し切っているだろうか。出し切っていて、まだ足りないのであれば、そこで真剣に外部から連れてくることを考えればいい。大体において、今いる社員の能力の3割も引き出せていない。
わたしは、今までの会社の進路を自分で決めて来たように書いてしまったが、実際には決してそうではない。色々な考えを巡らせながら、実際に導き出した結論は、それしか選択の余地がなかったというものばかりであった。我々は、大企業が手掛ける青色や紫色LEDを後追いで開発しても、勝ち目がなかったので、365nmという波長を選択せざるを得なかったのであり、まさに、ゴールポストで跳ね帰ったボールが偶然、足元に落ちてきたのである。私が皆さんに伝えたかったのは、正しいことをすること。そして正しいことは成功すると信じて努力することが重要だということであり、目的に向かって試行錯誤を重ね、その時点で出来得るベストを尽くすことがチャンスを呼び込む。こうなるはずだという論理的説明は無意味なのだ。なぜなら、ビジネスとは、不完全な人間がやることなのだから。
平成15年6月26日
第三回株主総会にあたって