Chapter 2
私は、徳島に来ていなかったら、今回、起業していない。それは、酒井教授と出会っていなかったからということでなく、常務理事という地位を投げ打ってまでリスクに走らせるインセンティブが働かなかったからだ。つまり、この起業は、怒りと憎しみがその原動力になっている。それは、国、社会に対する怒りも含まれているが、煮えたぎった油に放り込まれた一滴の水みたいなものだ。事務局長という立場で社会のさまざまな仕組みが明確に見えた。なぜ、日本、中でも徳島は、こんなに遅れているのか、この遅れた徳島を変えれば日本全体を変えることができるのではないか。その思いがこの起業に繋がっている。
私は、徳島に来るまで、自分自身をこんなに気性の激しい人間だとは思わなかった。お坊ちゃん育ちの穏やかな気質だと思っていた。しかし、実は全く逆の性格であると発見した。悟りの境地に達した仙人のような人はベンチャー企業を起こさないだろう。なぜなら、そんな人は、貧乏しても、人に馬鹿にされても、平然としていられるから、何も大変な思いをしてそんな危なっかしいことをする気が起きないからである。成功した経営者は、確かに徳のあるように見える人が多いが、それは功なり名を遂げた後にそうなったのであり、初めからそうではなかったはずである。まだ、成長意欲のある経営者なら、そんな呑気なことは言っていられないはずである。
前出のジム・クラークは、ハイテク企業の経営者の条件として、エンジニア、マーケッター、未来学者、実践家、社会学者、夢想家、ギャンブラー、伝道師、ゲリラ戦士、禅僧、狂信者、愛想のよいセールスマン、早変わり芸人など、すべての条件を持った人間と言っている。また、自分のことを、極度に組織内のヒエラルキーの論理を嫌う性格と表現している。私は自分自身の勝手な分析によるとこれらのかなりの部分を満たしている。したがって、事務局長という立場がいかに苦痛だったか、おわかりいただけると思う。
さて、協議会の始まりは、地元のベンチャー企業の分室に机をひとつ置いて、そこからスタートである。これは右も左もわからない私にとっては好都合だった。わからないことを、そこの社員2人から聞ける上、その社長にも相談できたからである。早速簡易印刷で名刺を作り、会った人に配った。まず、徳島の地理がわからないが、東京と違って狭い街なので、簡単に把握できた。また、人に関しても、協議会設立の中心メンバーは同世代の若い経営者が多かったので、何の違和感もなく接することができた。また、その時点の私は、6年前に失敗した時と違って、自分の能力に自信があったのと、過去のつらい経験から、もし、万が一うまくいかなくても、あの頃よりは悪くならないだろうと思っていたので、気が楽だった。
それから1ヶ月くらいで、地元金融機関の好意で、今の協議会が入っている川添いの両国橋の事務所に移ることになる。その事務所は、夏の阿波踊りの中心となる絶好のロケーションで、窓からの眺めも最高だった。この事務所が、私のやる気を刺激したことは確かであった。これが、窓もない古い陰気なビルの一室だったらこれほどには頑張らなかったかもしれない。早速、設立準備を始めるのだけれども、当然やったことがないし、また社団法人の設立を経験する人はあまりいないと思うが、県の職員から説明を受けながら、必要書類を揃えて行く。決まっていることは、ベンチャー企業の発掘・支援・育成を行うということだけであり、具体的に何をやるかは何も決まっていない。事業計画、収支計画を2年分を、ゼロから作らなければならない。ただ、私は、イベントプロデューサーなので、そういう計画を作成するのはお手のもので、持参したパソコンで数日で作り上げた。事業計画書、予算の作成と同時に大変なのは、総勢50名になる顧問、理事候補者に就任のお願いに回らなければならないことだった。それも理事全員の印鑑証明と就任承諾書を集めなければならない。私は、その理事候補が何の会社でどんな人かもさっぱりわからなかったが、順番にお願いして回った。ここでも私のアドレナリンを分泌させるのに大きく貢献した人がいた。「きみは、東京から来たのか、徳島には、経済団体が沢山あって、今でも多いと思っているのに、また作るのか、馬鹿なことは止めて東京へ帰りなさい」と。そんな時、確かに自分が逆の立場だったら同じことを言ったかもしれないと思ったが、「決してご迷惑をおかけしませんから、印鑑をください」と訴えると、しぶしぶハンコを押してくれた。
今でも、この記録は塗り替えられることはないと思うが、県知事の許認可による社団法人を設立申請から設立許可まで、たった1ヶ月。これは、当然、それ以前から、設立のメンバーが県との調整をしていたからできたことだが、普通はこれほど早くできないはずである。それから、県知事の設立許可が下りて、設立登記をするのだが、その日取りに関して、私はこだわった。平成八年八月八日大安という末広がりの最高の日取りで設立できた。この件に関して、ある理事から、なぜ、もっと早く登記をしなかったのかと叱られた。私の判断は正しかったと思っているが、2~3日早く登記することのメリットより、日取の方が重要である。この日付は会が存続する限りついて回るのだから。これは会社の設立にも共通する。会社設立記念日は、こだわり過ぎてこだわりすぎることはない。変な話になるが、我々の力の及ばない「運」が左右するからである。
設立総会は、ホテルの宴会場で盛大に開催された。県知事以下すべての顧問、理事が揃ったのは後にも先にもこれ一回だった。総会と基調講演が行われた。その設立は地元紙でも大きく取り上げられ、地元からの期待も高まった。しかし、設立後、実際に何をするべきかは、明確なものがあったわけではない。そもそも、私はベンチャー支援に関する知識、経験が何もない。本を買ってきて読んでもピンと来ない。ただ、設立以前から賞金1千万円の徳島ニュービジネス大賞の実施だけは、誰が決めたか知らないが、決まっていた。ところが、その賞金の出所はどこにもないどころか、協議会の運営資金さえない。最初の目論見では、県内の企業にお願いして5000万円くらいの収入を見込んでいたが、そんなに世の中甘くなく、中心メンバー4名が200万円づつ拠出し、地元金融機関3行から合計1000万円それから会員50名程度の2300万円で始めることになった。
まず、最初にやったのは、専用ロゴの作成と協議会を紹介するパンフレット、名刺の作成である。これらは、会員獲得のツールとして必要最低限のものである。日本ガイシでCIの事務局をやっていた私は、ロゴ(コーポレートマーク)の重要性を人一倍認識している。そして、紹介パンフレットの制作も急いで行ない、設立総会時にはもう配布していたし、会報創刊号も8月末には発行していた。こうしてかなり早いペースで活動が始まった。それから事務員を募集したところ、20名ほど応募が来た。理事数名が面接をして、その中から1名、字がきれいで芯の強そうな子を採用した。増金(現尾崎)さんと私の2人きりの事務局である。彼女は、退職するまでの3年半、弱音、愚痴を一度も吐いたことがない頑張り屋だった。我々の眼力は正しかった。彼女の力なくしては、今の協議会は有り得なかっただろう。2人でこれだけの事業は常識ではこなせない。たとえば、私が外出している時は、彼女は電話を取るためトイレへ行く時間もない程だから。最初の頃は、設立メンバー6名が朝7時30分からホテルで朝食会を毎週やって活動方針などを決めていた。また、月一回の例会では、ベンチャー企業の経営者を呼んで、相談したいこと、困っていることなどを話してもらい、参加者全員で議論し、ただ議論するだけでなく、何をしてあげられるか話し合った。これは、従来の話を聞くだけ講演形式のものと違って毎回50名以上が参加する面白い場となった。それから理事会では、全体の方針を議論した。いずれにしても、その資料作りだけでも大変な作業で、土日も仕事をして、平日も深夜まで仕事が終わらないという状態が続き、2人だけでやっていくのは大変なように思われた。それが、人間というのはすばらしいもので、回を重ねるうちに、要領がよくなって来て、それほど大変ではなくなって行った。
日々の業務において、我々は、今では常識になっている個別支援を一番最初にやった経済団体だと思う。これは、通常の経済団体が、全体の利益という名目で、個別企業の支援をしなかったのに対して、我々は、一企業の役に立たずして、全体の利益があるはずがないとの信念に基づいて、個別支援を実施した。たとえば、特許の申請方法がわからない、パンフレットの作り方がわからない、営業の仕方がわからないという会員に対して個別具体的に、懇切丁寧に指導を行った。今では、秋葉原のパソコンショップにも並んでいるヒット商品、北島クラフトの傾斜マウスパッド「ななめ君」の特許発案者兼命名者は私である。この売り込みで、秋葉原の電気店へ行商に行ったこともある。これには、最初理事の中からも「そんなことまでやる必要がない」と批判が出たが、ある工業新聞が、大きく『個別支援で成果ぞくぞく』という見出しで取り上げられたことにより、批判されなくなった。これが、設立2ヶ月後の10月である。いかに早いペースで事業を行っていたかがお分かりいただけると思う。このように当協議会は、マスコミに話題を提供し続けた。
こうして設立から数ヶ月経過し、運営にも慣れてきた頃、事件が起きた。それは、設立中心メンバー同士のベンチャー企業乗っ取り騒動である。この事件は、株主代表訴訟にまで発展し、私にとっては色々な意味で大変勉強になったが、会にとっては大変な問題に発展し、会長、副会長総出で、大変な労力と時間をかけて収束した。地元の急成長ベンチャー企業における、信頼を寄せていた役員とブレインによる謀反は、どの企業にも起こりうることで、経営者のカリスマ的経営から組織経営に移行する難しさを教えた。この問題は、最終的に従来の経営者が元のさやに納まって決着した。
年末も押し迫った頃、東京のニュービジネス協議会が主催する「ニュービジネスメッセ'96」(会場:パシフィコ横浜)に徳島のベンチャー企業9社が共同出展して、販路の拡大をすることになった。これは、今まで展示会に出展したことのない企業には、いい経験となった。徳島から50名以上の会員がマイクロソフトのビル=ゲイツの講演と展示会を見に参加した。展示会の出展者は阿波踊りの揃いの法被を来て、スダチを配った。夜は横浜中華街で懇親会と大いに盛り上がった。
さて、今でこそ徳島のニュービジネスと聞いて違和感を持つ人はあまりいないが、4年前は、そうではなかった。私が、設立後すぐ、全国に12箇所あるニュービジネス協議会の事務局長会議に参加した時、ある人が、「徳島なんかにニュービジネス協議会を認めていいのか」と言った。これは、当時はそう言われてもしようがないことだが、その時の私は、その一言に異常に腹が立った。「なぜ、徳島で悪い」と思った。私は徳島の人間ではないので、それ程怒る理由はないのだが、自分のことを言われたような気がした。このことがあって、当協議会のパンフレット、会報、総会資料はどれも、12協議会中一番立派に作ってある。
このように、内部、外部を問わず、あまり歓迎されなかったが、それが逆に私の奮起を促した。こんな風に書くと大袈裟だが、その時の私の怒りは、相当なもので、帰って来て風呂で大声で怒鳴り、怒りで一晩寝られなかった。こういうエネルギーは想像を超えるとてつもない力を発揮する。執念とは恐ろしい。
年も明けて、もうそろそろ来年度の事業を決めなければならないが、賞金1千万円の徳島ニュービジネス大賞の実施は、すでに決まっているが、我々事務員の給料さえままならないのに、どうして1千万円の賞金が捻出できるだろうか。私は、なんとか1千万円を捻出する方策を考えた、そこで、イベントプロデューサーの本領発揮である。展示会を開催してその出展料収入で賞金を拠出することを提案した。そのために、従来の東京の仕事仲間に設計、デザイン、パース(会場イメージ図)の制作を頼んだ。そして、朝食会と、理事会に提案して実施の了解を取りつけた。理事会でも、面白い、やってみようと言う前向きの意見が大勢を占めた。賞金1千万円は、今でこそインパクトが小さいが、当時としては破格の賞金であり、民間経済団体の拠出するものとしては異例だった。県庁記者クラブでの発表には、新聞、TVなどマスコミがたくさん押しかけ、翌日の新聞には大きく全国版で紹介された。また、全国のラジオからも電話生出演の依頼が来た。こうして一躍徳島のニュービジネスが全国に広まって行った。