Chapter 3
私は、結局経済団体の事務局長(3年目から常務理事・事務局長)として、ベンチャー企業支援を4年間経験した。当初受けた侮辱も、活発な活動によって高い評価を受けるようになった。この4年間に私は、財産とも言える豊富な人脈を築くことができた。それも、北は北海道から南は九州まで、全国12箇所のニュービジネス協議会の会長、副会長、理事そして会員の皆さんと接することができ、私の特技と言える、「生意気なことを言って年上に可愛がられる性格」もあり、親しくさせていただいた。また、行政によるベンチャー支援ブームの追い風もあり、協議会の事業予算は、当初の倍以上に膨れ上がった。また、NHKのドキュメンタリ番組で、「起業インターンシップ制度」という全国初の試みも取り上げられた。これは、これから起業しようという人が、ベンチャー企業で60日間オンジョブトレーニングして、実際に起業する際の準備をしてもらおうというものである。約2ヶ月に渡って取材が行われ、私の私生活から出張まで、付きっ切りで収録が行われた。この制度は、研修を受けた大部分の研修生が実際に起業するなど、予想以上の効果をあげ、BSで全国、海外にも放映された。
ところが、私は、このような我々のベンチャー支援に関する高い評価とは裏腹に、その活動内容が、本当にベンチャー企業の支援・育成につながっているかどうか疑問に感じていた。それは、展示会、講演会、研究会の開催をいくらやっても、実体としてのニュービジネスの創造につながらないこと。また、マーケティング調査の代行、企業同士のコーディネートをすると言っても、当事者の努力がなければ、全く無益な作業に終わってしまうからである。本来これらは、企業自身が身銭を切って自助努力としてやるべきことであり、ましてや他人にやってもらうことではない。温室で育った植物は、温室の外では成長できないのである。
私自身は、事務局長をやりながら、(株)ペリユというイベント設営用機材リースの会社を協議会との兼業で設立した。この会社は、私が以前から提唱していた「究極の会社は、社員ゼロ、工場、設備ゼロ」の会社であるということを実証するために設立した会社である。この会社は、同協議会が主催する「徳島ニュービジネスメッセ」の設営費用を削減する目的で設立したもので、イベント会場の小間設営を、リサイクル可能な紙製ハニカムパネルを何回も繰り返し使用し、特殊ジョイントで組み立てることによって、職人が不要となり、大幅に設営時間とコストを削減できるシステムである。また、最もコストのかかる設計に関しても、設計専用ソフトを開発して、デザイナーに頼まなくても、誰でも簡単に設計でき、必要パネルの枚数、ジョイントの数、見積りが瞬時にはじき出されるというものである。この会社は、公言通り従業員ゼロ、営業活動もほとんどしなかったが、東京ビッグサイトの展示会でも利用され、非常に利益率の高いビジネスとなった。また、東京の知り合いベンチャー企業の社長からの相談で、顧客データのパソコン入力をやった。これは、いわゆるSOHOのネットワークビジネスだが、人件費の安い徳島で、パソコン操作ができる主婦約2百名に登録してもらい、ビール、自動車等のキャンペーンはがきの顧客データ入力を行った。これも、仕事を受注した時だけ事務のアルバイトを雇って仕事を割りふればよいので、効率的なビジネスになった。これらのビジネスに共通するのは、絶対に損はしないということである。これは大変重要なことだが、その将来性を考えると、差別化しにくいビジネスなので飛躍的発展は期待できない。お遊び程度でやっている分には儲かるけれども、全国にネットワークを広げようとすると、類似企業が沢山出てきて期待した程の収益は期待できないはずである。
それらに比べると今回の窒化ガリウム半導体の製造というのは、ギャンブル性が高い。なにしろ、私自身が、エンジニアではないのと、この素材自身が未知の素材なので、その価値を正確に把握できないからである。今までの事業が、すべて自分で完結できたのと違って、今回は、自分でハンドリングできる範囲は大幅に限定されている。はっきり言ってしまえば、この事業に関して私ができることと言えば、「窒化物半導体の伝導師」として、その将来性に関して一人でも多くの人にその有望性を説いて回り、あわせて当社のポジションを明確にすること。そして、事業資金を集めて、最短、最小資金で株式公開し、その調達資金を有効に活用して、飛躍的発展を遂げるというシナリオを描くことぐらいである。従って、株式公開後は、私ではなく、業界のことをもっとわかる人が社長をやるべきだとさえ思っている。
この事業の、最も重要な技術開発に関しては、徳島大学の全面的な協力体制と酒井教授に拠るところが大きい。酒井教授の素晴らしい所は、明晰な頭脳と柔軟な発想、窒化物半導体に関する知識、経験は兎に角、事業のコスト意識、協力会社等への政治力、研究者の労務管理能力、人物としての親しみ易さ、そして何より失敗を恐れないベンチャースピリットにあると思う。想像するに、開放されつつあるとは言っても相変わらず保守的な学内において、酒井教授が、様々な摩擦、軋轢にあっていることは想像に難くない。それも、通常の授業その他煩わしい雑務に追われながら技術開発を行わなければならないので、その労力たるや大変なものであると想像できる。にも関わらず、次々と新しい特許を出願し、海外取引先との折衝、技術者の確保にも大変な労力を費やしている。最近のだらけきった日本のビジネスマンには足元にも及ばないワーカホリックと言えるだろう。
私は、このストーリーの書き出しで、「私は、目の前に降って沸いたゴールにシュートを決めるだけの役割」と書いたのは、そういう意味である。徳島大学窒化物半導体研究所というサッカーチームは、優秀な選手を中国、カナダなど世界じゅうから集めている。その司令塔は酒井教授である。ただ、彼らは、ビジネスという実戦経験がないので、ゴール前まで攻め込んでもシュートが決められないといった状況である。なぜなら、シュートというのは、論理的でありながら論理的解釈を超えたものだから、論理的解釈を好む学者には、わかりにくいものである。ストライカーは、本能的な勘で、なぜかそこに走り込めばウイングからのセンタリングをディフェンダーからの執拗なチェックをかわして蹴り込めるかもしれない、あるいは、ボールがゴールポストで跳ね返って目の前に落ちるかもしれないという無意識の行動をしている。私は、今その位置に全速力で走り込んでいる最中である。これは、そこにボールが来るような気がするという漠然とした確信であり、論理的根拠を持たない。
思うに、日本の大学の多くの技術が、同じ状況にあると思われる。ビジネス化が目前にも関わらず、シュートが決められないが故に、日の目を見ずに埋もれて行くという無駄というより勿体無いことが行われている。従って、我々の事例が、日本の新しいビジネスシステムのスタンダードになることを、期待している。今まで、何かとベンチャーを語る場合、アメリカのシステムが最高だと言われてきたが、私はそうとも限らないと思う。本当のビジネスは、ビジネスを意識しない純粋なところから生まれる。目先の利益に捕らわれていては本当のビジネスは生まれない。そんなものは、私が以前やっていた程度のビジネスにしかならない。実際インターネットは、軍事目的で開発された通信手段であり、ベンチャービジネスの盛んなイスラエルも軍事技術の民間転用がその基礎にある。従って、むしろ儲からない基礎研究の方が、今後さらに重要になって来る。米国の後追いで採算性を重視しすぎると日本は競争力を失うことになる。我々は、日本の従来のシステムにもっと自信をもつべきだ。そして、それを変えるのではなく、有効に活用する方策を考えた方が、コストも時間も節約できるだろう。大学に"千里馬"はいるが、"伯楽"がいないのである。従って、当社の成功は、日本の大学の技術を見直す良いきっかけになり、大学オリエンティドのベンチャー起業ブームのきっかけになればよいと期待している。
さて、随分前置きが長くなったが、皆さんが最も知りたい本題、今回の起業に関するきっかけからお話しよう。それは、平成11年春に遡る。徳島大学の前工学部長が、協議会を訪れ、工学部の酒井士郎教授の紹介と同氏が研究開発中の技術の事業化の相談を受けた。徳島大学は、文部省の認定で窒化物半導体研究所を設立し、その分野の世界最先端の研究開発を行って来た。ところが、そのビジネス化にあたって、我々のところに相談に来たのであった。その1時間足らずの説明で、私は直感的にこれはすごいビジネスになるかもしれないと思った。私は、賞金1千万円の徳島ニュービジネス大賞の実施や行政関係のベンチャービジネスの審査員を担当し、また、全国の同様コンテストの受賞案件を数多く見ているので、ビジネスを見る目はかなり肥えている。それらの中でも、窒化ガリウム半導体の将来性と、徳島大学の技術は、別格であった。この技術は、低迷する日本の製造業を一気に蘇生させるほどの力を持ったものである。すなわち、日本が得意とするデジタル家電の性能を飛躍的に発展させ、付加価値の下がってしまったこれら製品に全く新しい機能と性能を吹き込むことができる技術である。それで、この事業をなんとか事業化したいと思った。また、私は、協議会の事務局長を3年間の約束で引き受けていたので、既に3年を経過し、また、前に述べたようにベンチャー支援の限界を感じていたので、この技術をなんとか離陸させ、新しい道を切り開こうと決意した。
偶然、その1週間程前に、行政のベンチャー企業向け補助金の説明会に参加していて、その補助金が使えるのではないかと閃いた。締め切りまで1週間しかなかったが、窒化ガリウム半導体の新しい製造方法に関する資料と教授からのヒアリングを参考に、煩雑な申請書を作成して、なんとか提出日までに間に合わせた。これが運良く審査に合格し、最初の軍資金を手にすることができた。そして、協議会が主催する賞金1千万円の徳島ニュービジネス大賞に応募してもらった。これは、最優秀賞こそ逃したが、優秀賞を受賞した。この後、何回か補助金の申請をしたが、これらは残念ながら審査を通らなかった。
そうこうするうちに年も暮れ、私は協議会の膨大な事業の消化に追われていた。ベンチャー企業を取り巻く環境は、平成11年末の東証マザーズ、12年ナスダック・ジャパンといった新設株式市場が整備され、設立1年未満の会社で、赤字でも公開できる環境が整いつつあった。それで、これらの市場から資金調達し、市場の厳しい目に曝されながらビジネス化しようと決意した。それは、平成12年2月の下旬頃である。
ここから、当社の設立へ向けての具体的な活動が始まるわけだが、その過程は、私が4年間勤めた協議会で培った豊富な人脈と信頼がその基礎になっている。それからもう一つ、度重なる"偶然"が私をラッキーな方向に導いている。それらのいくつかを、これからご紹介しよう。
まず、起業する場合、一番困難なのは、資金集めだが、私は、東京に出張した折に時間があったので、親しくしている恵比寿のベンチャー企業を訪れた。そこの社長はマスコミにも頻繁に登場し、忙しい人なので、滅多にオフィスにいることはないが、なぜかこの日は偶然いた。それも早稲田大学の教授と一緒に雑誌の取材を受けていて、ちょうど終わったところだった。それで、三人で昼食を取っているときに、今回の事業の話をした。するとその教授は、是非、うちのベンチャーキャピタルで話を聞かせてくれないかということになった。また、その日の夕方、打ち合わせを済ませて、ベンチャーキャピタルに勤めている兄と晩ご飯を食べながら相談をしようということになったが、時間があったので何気なく通りかかった新橋のディスカウントストアにブラッと入ったところ、なんとその前日徳島で講演をしてもらったベンチャーキャピタリストの村口和孝氏が入口のところに立っているではないか。早速昨日の礼を言うとともに、新会社の資本政策の相談をしてみた。すると、ご自身も時間があるとのことで、喫茶店でA4の便箋に2枚程度で資本政策をさらっと書いてくれた。スタートアップ時には額面で資金提供してもらうのが当り前と思っていた私にとってその資本政策は、驚きであるとともに、きわめて好都合であった。なぜなら、誰しも会社を始めるのに、十分な自己資金があって始められることはまずないのだけれども、会社における自分の持ち株比率は十分確保しておきたいからだ。村口氏は、まず2000万円の自己資金で設立し、後から数回に分けて増資を行い、各段階で時価を高めていき、最後に株式公開を行うときに、自分の持ち株比率が33.4%を切らないという私にとっては素敵なプランを簡単に説明してくれた。しかも、地元のエンゼルからの出資金は、投資事業有限責任組合ということで、窓口を一本化することを教えてくれた。これらの資本政策は、創業者の利益ということだけではなく、お金だけ出す人と、実際荒海に身を投げ打って寝食を惜しんで成功に向けて努力する人のお金の価値は違ってしかるべきだというもっともな理屈によるものだった。村口氏は、実際に数多くの資本政策を担当して、創業者が、途中で馬鹿らしいとさじを投げてしまったり、株主とのイザコザで挫折する事例を数多く経験して、そのような資本政策を私に薦めてくれたのだ。
確かに、成功することが株主の最大の利益になる訳だから、その権利を確保して創業者にインセンティブを与えるというのは、欧米流合理主義に基づいた当然のものだ。そこで、私は、2000万円を拠出する訳だが、こんな大金誰でもすぐ出せるものではない。その資金繰りをご紹介しよう。これは、ある意味ではラッキーな面もかなりある。まず、1年前、証券会社に薦められるまま、60万円を元手に公募株を買ったところ、公開初値が200万円以上になったので、220万円で売却した。今度は、直感で上がりそうな目柄をそのお金で買っておいたところ、1000万円を超えて上がった。ところがその後、下がり続け、この会社の資本金として振り込むため、私が手放さなければならない時は、米国ナスダックの暴落の影響もあって650万円で売却するのがやっとだった。いずれにせよ、元々60万円の元手が1年後に10倍になっていたのである。そんなこんなで、両親からの借金と自分の貯金を寄せ集めて2000万円を捻出した。資本金に関しては、初めての創業の時は、十分に資金がないことが多い。けれども、後々の資本政策を考えると、無理しても沢山出しておくべきだと思う。
経営面に関しては、更に強力なアドバイザーを得ることになる。それは、前述の早稲田大学の教授の紹介によるものだが、たまたま東京に出張していた3月中旬、携帯電話の留守電に、早稲田大学のアントレプレヌール研究会の松田修一教授から、一度相談にいらっしゃいというメッセージが入っていた。起業する人で、相談したいと思っている人から、相談に乗ってあげるからいらっしゃいと言ってもらえることはそうない。それで、急いで連絡を取り、早稲田の近くのホテルで1時間ほど、資本政策、特許、その他に関して指導していただいた。松田先生は、通産省の様々なベンチャー関連委員、審査委員をやっておられるので、幅広く経営に関する知識をお持ちで、何より豊富な人脈をお持ちである。そして、これらがきっかけで、早稲田大学と関連のあるベンチャーキャピタルでプレゼンテーションをすることになった。
プレゼンテーション当日、私は、まだ協議会の事務局長であり、会社も設立もされていなかった。ただ、緊張するでもなく、いつもの調子で、ジョークを織り交ぜながら(あまり受けなかったが)約30分プレゼンをし、質疑応答も30分のところを15分と、大変短いものだったが、その場で出資が決定した。私は、その直前、「起業家」というジム・クラークがネットスケープコミュニケーションズ社を設立した時のことを書いた本を読んで、あまりにジム・クラークに共感する部分が多いので、完全にその時の私は、ジム・クラークになりきっていた。そして、自分こそが、日本のジム・クラークとなって、日本にベンチャーブームを築き上げる意気込みで臨んだ。結局、難しい質問責めに遭うでもなく、あまりにあっけなく終わってしまったことに、なんとなく拍子抜けしたところがないではなかったが、順調な滑り出しを喜んだ。
そして、その帰りに、飛行機まで時間があったので、資本政策でお世話になったベンチャーキャピタリストの村口氏のところを尋ねた、すると、ノーアポだったにもかかわらず、村口氏は、事務所にいた。それで、出資が決定した話をした。すると、村口氏がうちも出させてもらっていいですかということになり、同額の出資が決定した。こうなると、ただでさえお調子者の私は、もう波に乗りきっている状態である。
それから、投資事業有限責任組合の設立準備が始まる。投資事業有限責任組合は、投資事業有限責任組合法に基づいて、設立される組合で、いわゆるファンドというものだが、最大49名の出資者を集めることができる。そして、そのうちの1人が、無限責任組合員となって出資金を投資その他で運用し、利益を出資者に還元するというものである。今回のナイトライド投資事業有限責任組合1号は、私が有限責任組合員となって出資金はすべて当社に投資するという前提で1口50万円で募集し、株式公開後速やかに株を売却、解散するというものである。その募集にあたっては、本当に出資者が集まるだろうかと不安だった。大体において、普段出資してくれるような口振りの人は、いざという時には、出資してくれないものである。新聞の記事で投資説明会の開催告知を行い、当日約40名が集まり、テレビ局の取材カメラも入った。そして、約30分間で事業説明したのだが、かなり強気のプレゼンテーションだったと思う。
その参加者の中で1人、強烈に印象に残った人がいた。この人は、説明会の始めから終わりまで全く笑い顔を見せないで、ずっと難しい顔をしていた。それで、この人は絶対出資しないだろうと思っていた。説明会の模様は、当日の夕方のTVニュースで放映された。説明会から申込締め切りまでたった2日間という短い募集で、なんと45名の出資者から6400万円が集まった。出資者は、徳島ニュービジネス協議会の理事が中心だが、法人10口500万円の2社以外は、すべて個人であり、個人で50万円から最高500万円まで様々である。その顔ぶれは、主婦、サラリーマン、会社経営者、医者など様々であり、この事業に対する地元の関心の高さと、期待を感じた。特に驚いたのは、終始難しい顔をして説明を聞いていた人が、一番最初に申込をしてくれたということである。見た目で物事を判断してはいけないなと、つくづく実感した。こんなことで、シリーズA増資は、目標の8000万円を上回る1億400万円を調達した。