Chapter 15
今年も、もう終わりである。起業した頃は、時間が長く感じられたが、今年は、随分早い気がする。会社は、5周年を迎えたが、それは一方で5年も掛かって、まだ上場できていないという情けない話でもある。設立当時は、真剣に2年以内に上場するつもりだった。それは、私の自分勝手なビジネスモデルによるものだが、私の持論としては、現在のように、日本経済がシュリンクする環境においては、個人マネーでベンチャー企業を育成するしかないという根拠に基いている。我々は、ベンチャーキャピタルから、14億円の投資を受け、1億円を政府系の金融機関からの借入れている。民間企業、民間金融機関は、リストラの過程にあるので、リスクを取れない状況、もしくは構造にある。そんな中で、リスクを取れるのは、個人である。
行政は、どうか。それが、本来、将来のビジネスを育成しなければならない国も、その役割を全く果たせない状況になっている。先日、国の財政に関する講演で今の日本の状況を知った。恥ずかしながら、企業の経営を預かる立場にありながら、自分の国の財政に関して無知だった。というより、知る機会がなかった。その内容は、驚きとともに、怒りを感じる程のひどい内容だった。
国の財政状況を一家の家計に例えた説明では、月収40万円の世帯で、生活費39万円、田舎への仕送り13万円。ローンの返済15万円、ローン残高5300万円。つまり、毎月28万円不足しているというのだ。借金の返済が収入の4割を占め、更に毎月収入の7割の借金が増えていく。こんな状況になるまで、なぜ、放ってあるのか。これらの最大の元凶は、歳出の25%を占める社会保障費。よく槍玉に上がる公共事業は、たった9%に過ぎない。確かに高齢者、病人等を社会全体で支えていくことは必要だと思うが、国が借金をしてまで補わなければならないかと言えば、その答は、はっきりとノーである。なぜなら、そのつけは、若い人が払える負担を遥かに超えており、これらの若い人たちが、高齢になった時には、財政が破綻して、同じサービスを受けられないどころか、死ぬまで働いても返せない額だからである。
もっと分かり易く言うと、寝たきりのおじいさんと病気がちなおばあさん、それに元気なお父さんとお母さんと一人っ子の5人家族で、寝たきりのおじいちゃんの介護とおばあちゃんの治療費を、借金で負担している。子供は、1人しかいないので、将来、お父さんとお母さんの分も負担しなければならないから、合計4人分の借金を1人で返済しなければならない。不公平なことに、おじいちゃんとおばあちゃんは、若い頃、社会保障費の負担をしていない。一方で、子供は、十分な教育を受ける余裕がなかったので、高給の職に就けない。そもそも、日本の将来を支える産業の育成を怠っているので、有望な企業がなく、職に在りつけたとしても、低賃金で、死ぬまで働いても返せない。分かり易く言えば、こうである。こんなことが許されていいのか。
臭い物には蓋をして、見て見ない振りをする日本人の悪い癖が、このような状況を作り出した。姉歯建築士の強度偽装より、遥かに許されざる悪が公然とまかり通っている。「国の借金、みんなで作れば怖くない」である。このような状況を見るにつけても、日本の将来は、危うい。一刻も早く、このような財政状況を改善しなければならない。先行き不透明なら、まだ許せるが、これではお先真っ暗ではないか。若い人に年金を払えと言っても無理がある。正直、私でさえ、年金を払うのを止めようかと思う。
なぜ、こんな話をしたかと言うと、若い人や、大変な思いをして、ベンチャー企業を起こした人が、報われる社会にしないと日本という国が駄目になるということである。今の高齢者の話は、個人の話に留まらず、企業にも見事に当てはまる。すなわち、構造不況に陥った救いようのない企業を民事再生という名目で莫大な負債を税金で帳消しにして延命する一方で、若い企業へは、ほとんどお金が廻らないという実態である。今、救っても、この先、遠からず破綻する企業を救済することと、これからの日本経済を支える重要産業になる可能性のある企業を活性化することのどちらが重要なのか。同じ25%を支出するなら、まず、若い人、若い企業のために投資をし、経済を活性化させれば、将来、個人と企業からの税収で社会保障費等の後ろ向きの費用が賄えるようになる可能性がある。
私は、(社)徳島ニュービジネス協議会の事務局長だった当時、賞金1000万円の徳島ニュービジネス大賞というビジネスプランコンテストを毎年実施した。その賞金1000万円は、展示会を開催し、そこで集めた出展料、広告料だった。協議会の理事、会員が必死に捻出した1000万円だった。たった1000万円だが、この1000万円のために全国から、ビジネスプランの応募がたくさん集まり、賞金を貰えなかった参加者も、自らそのプランを実現するために努力した。お金は、うまく使えばその何倍もの効果を生むが、使い方を誤ると、死に金になる。少子化を是認するのではなく、多子化するため、また、滅び行く産業を支えるのではなく、新産業を創造するためにお金を使えば、社会全体が明るい未来を描けるではないか。末期の患者の医療費は軽く数百万かかるが、子供を生んだ夫婦に100万円の祝い金を出せば、大喜びだろう。また、女性が働けるよう、安い託児施設を作ればいいではないか。
凶悪犯罪の主役は、若年齢化が進み、小、中学生にまで広がっているが、これは、社会が若い人に夢を与えられないことが原因である。80年代に、米国で犯罪が多発したように、犯罪発生件数と国の財政は、密接に関連している。犯罪が、増えたから取り締まる警察官を増やすでは、悪循環である。犯罪を犯す必要のない豊かな社会を作ればいい。そのためにも予算配分の見直しが必要である。若い人、若い企業が夢を抱ける社会を実現しなければならない。
国の財政の話は、この辺で終わりにして、個人がリスクを取る話に戻るが、日本人は、何か悪いことがあると全て国の責任にしたがる悪い癖がある。姉歯建築士の強度偽装問題も同様だが、確かに強度不足の建築物を設計し、それを建てた建築会社、それをチェックし切れなかった検査機関も悪いが、それを買った個人側にも十分に調べなかった落ち度が明らかにある。割安物件なのだから、何かある筈と疑うのが常識だろう。それを、マスコミの風潮に流され、十分な議論もなされないうちに、行政が購入者を保護すると決めるのは、いかがなものだろう。
これと同じことが、株式市場にも当てはまる。ナスダック・ジャパン、マザーズというふたつの新興株式市場は、リスクのあるベンチャー企業が公開のマーケットで資金調達できる道を拓くはずだった。ところが、審査基準が年々厳しくなり、いつの間にか、有望ベンチャーでさえ、上場できない状況になってしまった。これは、新興市場を作った当初の目論見とは大幅に異なる。あくまでも、個人が、個人の責任において、リスクを負えば、それで十分なのだ。それを、やれ、主幹事証券会社の責任だの、市場の責任だのと、ほじくらなくてもいいところをほじくり回すから、本来の目的が全く果たせない成長性の低い中小企業の寄せ集め市場に成り下がってしまったのだ。本当に魅力的な成長性の高いベンチャー企業は、ギャンブル性が高いゆえに、リスクが大きい一方で、当たったときの利益も大きいのだ。それを判断するのは個人であり、損をするもの得をするのも個人なのだ。
我々は、早い段階で新興市場に上場し、リスクを取れる個人投資家から資金調達をし、更に高い成長軌道を描く予定だった。それが、未だに2段ロケットに切り替えられないので、1段ロケットの頼りない推進力でフラフラ飛ばざるを得ない。こんなことをやっていたら、うまく行くものもうまく行かない。ただ、我々は、フラフラになりながらも、何とか飛び続けるために、余分な開発と人員を減らし、一方で、新製品を次々と発表している。UV-LEDの特徴を生かした空間演出用照明「ライムライトシリーズ」は、従来のLEDの概念を覆す画期的商品だ。 結論としては、国の財政の問題にしても、建築強度偽装問題にしても、悪いことはすべて国の責任にしたがる我々が結果的に無駄な財政支出を生み、結局自分たちの首を絞めていることに早く気が付くべきだ。もう、国が守ってくれる時代は、去った。自分の力で自分たちの生命、財産を守る時代が来たのだ。
今回は、年末にあたって、企業経営という視点ではなく、国全体のマクロな視点から意見を述べさせていただいた。来年は、いい年にしたいものである。
平成17年12月28日
仕事納めにあたって